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(大峯山系 洞川地方)

■カルスト地形
   石灰岩地帯に生ずる特殊な侵食地形。
   ユーゴスラビア北西部のカルスト地方に由来する。
   石灰岩の多くは太平洋中の生物礁起源で海洋プレートの移動とともに日本列島
   にたどり着いたサンゴ礁。
   標高100〜500mの高原で、鍾乳洞など地上、以下の大規模な奇形にとむ。


  洞川地方はこのようなカルスト地形に代表されます。

  ●カレン(karren)
    石灰岩地帯に見られる地表に現れた侵食地帯。
    石灰岩が墓石状に林立した景観をカレンフェルトと呼ぶ。
  ●ドリーネ(Doline)
    鍾乳洞の上部が陥没して出来た窪地。
  ●ウバーレ(Uvala)
    隣接したドリーネのいくつかが、互いに連結することによって生じた大形の窪地。
  ●ポリエ
    地下水面より高い部分が侵食されつくした溶食墓地。







ウバーレが洞川の村落であり、カレン・ドリーネは台地としてその内部は蟻の巣のように巡り、広大な泉がいくつも存在する鍾乳洞と考えられます。
1994年・2005年・2008年の四国を中心とした大渇水時に「ごろごろ水」源水の水量に変化が無かった。
幾十年滞留した水が現在湧出ているものと推察される。



 
■五代松鍾乳洞
   吉野熊野国立公園、大峯山系稲村岳直下にある。昭和4年に地元、赤井五代末氏
   により発見され二代にわたり10余念の歳月を投入し探洞されたものである。
   洞内には全国に誇る鍾乳石や石筍が夢の宮殿を形造り見事な様相をみせている。
   奈良県の天然記念物の指定を受けている。
   2000メートル以上の奥行きを有すると地質学者は助言している。

   ※鍾乳石の「鐘」は乳を鐘(あつ)めるという意味です。
    乳は白い水でカルシウムを意味します。

   ※鍾乳石が1竸びるのにかかる時間は100年かかるといわれております。
    この黄金の一滴がごろごろ水の源と考えられます。
■ごろごろ水の誕生
  五代松鍾乳洞の真下から湧き出る水を古来より
  「ごろごろ水」と呼び、水神山の神、を祀り地元では
  古くから万病に効く「神の水」として保全されてきました。
  幾十年もの永い時間カルスト台地を旅した水は・・・
  鍾乳石で磨きあげられ今「ごろごろ水」として
  生まれ変わりました。
  いまでも嗄れる事なく修験者や旅人の喉をうるおしている。
  ひっそり佇む石碑はなぜか地蔵菩薩にみえてくる。
■五代松老人物語
 (この記事は昭和30年、新聞に掲載されたものです)

※昭和30年、新聞に掲載された記事を横書きにしたものです。


十二、三の頃から少年の“ごよにい”は家業の植林を手伝っていたが、この少年の心を強くとらえたのは、杉植えや下刈りではなく、山へ通う往復の途中、ゴウゴウと大地の底からひびいてくる水の音だった。それは村人たちが“ごろごろ水”とよんでいた場所なのだが、いつの間にか少年はこの奥にはきっと鍾乳洞があるに違いないという。途方もない想像をするようになった。そしてこの想像は年とともに少年が成長するよすに、いつしか信念へと成長していった。

その後、大阪の親戚へ働きに行っていた。“ごよにい”は二十六歳の時に呼びかえされて小菊さんという可愛い娘さんと結婚し、家業をついだ。しかし頭にこびりついて離れないのは、あの、大地の底から、魂をゆるがすように響いてくる水の音である。“ごよにい”は山へ行くような顔をしてそッと手がかりを探しはじめた。そしてながい時間をかけて、確かにここだという強い自信ができた。ある日ちっぽけな人間の意思をアザ笑うかのようにたちはだかる岸壁に、処女鎚のこだまを響かせたのだった。大正十四年“ごよにい”四十三歳の時のこと。

それはすぐ谷あいの村に知れ渡った。村人たちは「可哀そうに、気が狂うた」とささやきあい、女 は「ほんにイロ(あなた)は情ない人じゃ」とグチる。すでに三人の子をもつ働き盛りの男が、家庭をすててくる日もくる日も、アテのない岩堀りでは、気違いというウワサも無理はない。が、見果てぬ地中の楽園を追う“ごよにい”のひたすらな姿に、いつの間にか小菊さんもまきこまれ、大阪の浪華商業へ通学中の長男  君(当時十七歳)も学校をやめて手伝いはじめた。そして七年目の昭和六年九月、第一の鍾乳洞を掘りあてた。が、喜ぶ家族をシリ目に“ごよにい”はこうつぶやいた「・・イゲ(私)が考えてたのは、こんなちッさなものじゃない。もっともっと大きな洞じゃ」

岩を掘る澄んだ音は、一日も休むことはなかった。しかし支出ばかりで収入のない一家は貧乏のどん底へ落ちた。山はとっくに売りつくし、わずかにワサビを売る金が、生命をつなぐ糧にかわるばかりである。けれどもどんな障害も“ごよにい”を断念させることはできなかった。一家はひと振いごとの鎚に祈りをこめながら掘りつづけた。

昭和十一年のある日、次男の邦政君のふりおろした鎚が、ドンと太鼓のような音をたてたかと思うと、突然ポカリと穴が開いた。「ととッ、でっかい洞や、うちより広いわ!」邦政君の叫びに、一家は手をとり肩を抱いて喜んだ。夢中で穴に追いこんだ“ごよにい”の目は涙でくもり、天井といわず、自然が描いた大彫刻が、少しも見えなかったという・・・。

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